幸せになれない星の住人 9−1

幸せになれない星の住人

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9−1


 どうしたんですか、とつぶやく声は事務的で、こちらをさして心配してはいないのだろうというのがありありと伝わってきた。
「……なんでもないよ」
「そうですか」
 それでもう話は終わったとばかりにキャンバスに向き直ってしまう。松本さんの変わらぬ様子に、どこかほっとする自分がいた。
 八月の終わり、もうすぐ夏休みが明けるというその時になって、松本さんから呼び出された。夏休みも来てほしいと頼んでおきながら、結局松本さんと会ったのはこの一回のみ。『絵が完成しそうなので観にきてください』と、呼び出すメールの素っ気なさにも笑えた。
 蒸し蒸しとする美術室。もちろん窓を全開にしても風はなく、油絵のにおいが外に逃げることもなかった。暑さとにおい、慣れない人からしたらこれはもう地獄だろう。まだ一年生、真夏の美術室は初体験の松本さんは、しきりに汗をぬぐっていた。
 松本さんは「ちゃんと完成するまでは」と、頑なに絵を見せたがらなかった。構図を決めるスケッチすらも私の目には入らないようにしていたし、そこらへんはかなり徹底している。教えてほしいと言いながら、絵の内容に関しては指図されるつもりはない。難しい子だな、とはつくづく思った。
 手持ち無沙汰なので、目をつぶってぼーっとする。外からはバットがボールを叩くキンっという音がする。上の階の音楽室から、吹奏楽部が奏でる音がかすかに。
 この音の風景は去年と変わらないな、と夏の空気を全身で感じていた。
「……やっぱり気になります。何か絵空先輩、えらくお疲れじゃないですか」
 と。
 夏の世界にひたっていた私を、松本さんが呼び起こす。わずかに眉を吊り上げ、怪訝そうな顔。心配というより、単に気になるというだけ。そこだけは譲らんとするように、松本さんが筆を持った手を止めることはなかった。
「疲れたっていえば疲れたのかな」
「はっきりしてください。うざったい」
「相変わらず手厳しいね」
 はは、と目を細めて力なく笑った。
 確かに。ここ最近は色々あって、疲れていた。勉強が手につかなくなりそうで困って、どうにか机にかじりついて、余計疲弊したような状態だ。
「ちょっとね……思いもよらない、ヘビーな話を聞かされたりしたの」
「はあ」
「知り合ってからそんなに経ってないような人からさ。どう反応していいか、まったくわからなかった」
「まあそれは疲れそうですけど。相手と今後仲良くする予定がないのなら、そんなの聞き流しておけばいいんです。仲良くする予定だったんなら、喜んでおけばいいんですよ」
 呆れたように、ものぐさげに口を動かす松本さん。その回答はシンプルだけど、それだけに私にはよくわからない。こちらの様子に気づいてくれたのか、松本さんは淡々とつけ加えた。
「ヘビーな話だのなんだの、たいして親しくもない相手にわざわざしてみせるのは、その人と距離を詰めたいからって相場は決まってます。秘密の共有なんて、親しくなるためには不可欠なイベントでしょう?」
「そうなんだ?」
「あとは、共通の敵の悪口とか。この部活の一年二人なんてまさにそうです。先輩達のいないところで私の悪口言って、二人だけの秘密だなんて盛り上がってるんですよ」
「……へえ」
 まあ、あの二人のことなんか眼中にないから気にならないですけど、と松本さんは眼鏡の奥の目をうんざりとさせた。その間にも手は休めず、ぺたぺたと絵具をキャンバスに載せていく。
 そういえば相子に松本さんが皆の輪に入れるよう誘導しろと頼まれていたが、これを見る限りでは叶わないのだろう。私はふっとため息をついて、それに松本さんが口を尖らせる。これはこれで、ゆるやかな時間が流れた。
「――でも絵空先輩は、そのヘビーな話をしてくる人と、相子先輩以上に仲良くなる気はないんでしょうね」
 断定調で、松本さんは言葉をつむいだ。
 お約束か、と私は肩をすくめる。
「どうかな。今はわからなくなっちゃってるけど」
「絵空先輩は相子先輩と仲良くしながら心の奥底では羨ましがっていて、妬んでいて、そういう風にして執着しているんです。この手の執着心ってなかなかにして強いですよ。羨んでいる事柄が相手から取り去られればあっさりとなくなるんでしょうけれど、実際、一度得た輝かしい功績はなかったことになるわけじゃないですから」
 全部わかっているという風に、言葉はよどみなく流される。わかるような、わからないような話。松本さんの持論ははたして、的を射ているのか否か。
「――と。だいたいこんなもんですかね。完成しました」
「お」
 松本さんが筆を置き、ふう、と額をぬぐった。それから少しだけ誇らしげに、私を向く。それに促されて、私は椅子を立ち、その絵を正面から見に行った。
「これが、私の内面をモチーフにした?」
「そうです。こんな感じです」
 きっとあなたの内面は。松本さんは自信ありげに、口端を吊り上げた。
 その絵はまだ荒削りで、絵具が十分に伸ばしきれていなかったり、色を重ねすぎたりしていた。ただ、画面がなにを表すのかは、とてもわかりやすい。
 太陽に向かって伸ばす手。金色に輝く光の玉に、細く白い手が伸べられている。しかし、手は単に太陽を目指しているのではない。その周囲で不穏な、織り込まれるような暗色の糸の波がたゆたっている。手から、負のオーラとでもいうべきものが、太陽に発されている。
「意外とシンプルな絵だね」
「もうちょっと凝ってみたかったんですけどね。今の私ではそれが限界です」
 絵から、松本さんに視線をスライドさせる。彼女の手は絵具で汚れていた。それで汗をぬぐったせいで、鼻の頭にも青色が少し。
 この夏休み、彼女はひとりきりで頑張ったのだろうと思う。
「……これが、私?」
「はい」
 しっかりと、彼女はうなずいた。
 彼女の書く小説に私のようなキャラクターが出るならば、この絵のような雰囲気の人間になるのか。私はそう、中身を見たこともない大学ノートに思いを馳せた。


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